以前、歩く瞑想の基本編をお伝えしました。(前回の記事はこちら「歩く瞑想(基本編)」)
今回は応用編です。
基本編では、歩く瞑想のやり方を紹介し、その意味付けとして、注意のトレーニングという説明をしました。
これに加え、歩く瞑想について、個人的な過去の経験から、もう一つの要素をご説明します。
それは、歩く瞑想は、座る瞑想に比べて五感から入ってくる情報が増えることにあります。座る瞑想が目をつぶって座っている(もしくは目を開けていても基本的に景色は変わらない)のに比べ、歩く瞑想では、景色が少しずつ変わっていきます。それは景色自体の移り変わりという刺激でもあり、また、自分の体の位置が変わっているということへの気づきでもあります。自然の中で歩けば、目に映る自然物(木、草、土、鳥など)が変わるでしょう。また、景色の移り変わりの無い部屋の中でやる場合は、景色の変化は感じなくても、自分のからだが前進していき、壁にぶつかりそうだとか、目から入ってくる光の加減がかわる、などといった気づきは同様に得られます。
情報は、心の動きをもたらします。自然が移り変われば、きれいだと思ったり、足を引っかけないように気を付けて歩かないといけないと思ったりします。部屋の中であれば、壁にぶつかりそうだから体を反対向きに向けようだとか、隣で練習している人がいればその人とペースが違うとか距離が近いとかといったことを考えます。それらの心の動きを見ることが、練習になるのです。これは、日常生活において対人関係から生まれる心の動きと基本的に同じです。歩く瞑想で、情報量が増えることにより心の動きが多くなることに気づき、それを眺める練習をすると、それが日常の対人関係のやり取りでの心の動きへの気づきに同じように適用できます。
心の動きをありのままにみる、には2つの段階があります。一つ目は、情報をただそのまま受け取ること。二つ目は、情報を受け取ったことにより発生する心の動きをそのまま見ることです。
例えば、一歩3cm歩幅で、一歩一歩歩いていくとします。この歩幅では、進めど進めど前に行きません。しかし、1時間経過した時に40m近く進んだとします。普通なら、スタート地点を振り返って、達成感を感じることでしょう。このとき、一つ目の感じ方では、「ただ40m移動した」とだけ感じ、そこに「よくこれだけ歩いたな」という評価を交えません。二つ目の感じ方は、この達成感と喜びを感じている自分を客観的に眺めます。これはいずれもあるがままに見る見方で、レベルの違いによります。人間関係に当てはめるなら、ある人から悪口を言われた場合に、一つ目の感じ方であれば、それをただ言葉の羅列として受け止め、そこに「相手からの自分に対して悪意がある」という評価をせずに受け止めます。二つ目は、その悪口を聞いて不快な気持ちにある場合であり、これはこれで、その不快さをそのまま眺めます。
いずれもありのままに物事をみる、ということです。順序としては、二つ目の関わり方をし、その不快感を回避せずにじっくりと分析していくと、だんだんと一つ目の関わり方に近づいていく、というのが基本だと思います。一方、心が静かで深い段階に入っていると、最初から一つ目の関わり方に至ることもあるでしょう。大事なことは、あるがままに見る、に二つの段階があることを体験しておくことであると考えます。その理解があると、日常生活における外部からのインプットと感情の動きについて、自分なりのコントロールの糸口が見つかるでしょう。